コルネル・ディヌ

概略

国籍  ルーマニア
生年月日 1948年8月2日(72歳)
出身地 ムンテニア地方、ドゥンボヴィツァ県、トゥルゴヴィシュテ
身長 178cm
体重 73kg

 

Cornel Dinu

 

ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(センターバック)。

 

利き足は右。

 

1970年代ルーマニア代表が誇る不動のボランチ。

 

18歳の時ディナモ・ブカレストで1部デビューを果たして以来、引退まで17シーズンをこのクラブで過ごしたバンディエラで総試合出場数454はリーグでも歴代5位の記録。

 

この間に6度のリーグ優勝と2度のカップを勝ち取り、ルーマニア最優秀選手には1970、72、74年の3度輝いている。

 

獲得タイトル

クラブ

FCディナモ・ブカレスト
  • ディヴィジア1 (6) : 1970-71, 1972-73, 1974-75, 1976-77, 1981-82, 1982-83
  • クパ・ロムニエイ (2) : 1967-68, 1981-82

個人

  • ルーマニア年間最優秀選手賞 (3) : 1970, 1972, 1974
  • バロンドール24位: 1970

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1966-1983 ルーマニアの旗 D・ブカレスト 454 (53)
代表歴
1968-1981 ルーマニアの旗 ルーマニア 75 (7)

 

クラブ

 

1963年から1966年までメタルル・トゥルゴヴィシュテの下部組織に所属した。

 

1960年代前半のディヴィジア1(1部)ではFCディナモ・ブカレストが4連覇を達成しており、ディヌは1966年にディナモに移ると、同年のトップチームデビューから1983年に現役引退するまでディナモ一筋のサッカー人生を送った。

 

1963年には3歳年上のミルチェア・ルチェスクがディナモに加入しており、ディヌとルチェスクは1960年代後半から1970年代のディナモを牽引した。

 

1970-71シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たし、1972-73シーズンにも優勝した。

 

1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦のクルセイダーズFC(北アイルランド)戦セカンドレグで11-0という大勝を記録し、現在でも同大会における最大得点差記録となっている。

 

1974-75シーズンにもリーグ優勝し、32得点を挙げたチームメイトのドゥドゥ・ゲオルゲスクはヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。

 

自身4度目のリーグ優勝を果たした1976-77シーズンにも、ゲオルゲスクは2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いている。

 

1981-82シーズンのUEFAカップ2回戦ではインテル(イタリア)と対戦し、ジュゼッペ・バレージ、アレッサンドロ・アルトベッリ、ヘルベルト・プロハスカなどがいる格上から金星を挙げた。

 

同シーズンにはリーグ戦で自身5度目の優勝を果たし、1982-83シーズンには2連覇を達成した。

 

ディナモ在籍中、ルーマニア年間最優秀選手賞には1970年、1972年、1974年の3度選出され、1968年と1973年の2度2位となった。

 

ディナモではリーグ戦454試合に出場し、ディヴィジア1では6度、クパ・ロムニエイでは2度優勝したが、出場試合数は現在でもクラブ歴代最多出場記録である。

 

ディヌ在籍時のディナモはUEFAチャンピオンズカップに5度出場しているが、2回戦の壁を超えられなかった。

 

しかし、ディヌ引退直後の1983-84シーズンには準決勝に進出している。

 

代表

 

1968年5月1日、オーストリア戦 (1-1) でルーマニア代表デビューした。

 

ルーマニア代表は1966 FIFAワールドカップまで5大会連続でヨーロッパ予選敗退に終わっていたが、1970年にはアンジェロ・ニクレスク監督に導かれ、1970 FIFAワールドカップに出場。

 

21歳ながらレギュラーであった。

 

経験豊富な29歳のコエからそのポジションを奪い全試合出場。

 

その甘いマスクと背が高くスマートな容姿でエレガントなパフォーマンスをこなす姿は万人に人気があった。

 

グループリーグでは前回大会優勝のイングランド、2度優勝のブラジル、チェコスロバキアと同組となり、1勝2敗の3位でグループリーグ敗退に終わったが、イングランド戦・ブラジル戦はいずれも1点差での敗戦だった。

 

ルーマニアの主要選手にはキャプテンのミルチェア・ルチェスク、ラドゥ・ヌンヴェイラー、フロレア・ドゥミトラチェなどがおり、ディヌ自身は3試合すべてにフル出場した。

 

1950年代から1980年代までの30年間で、ルーマニアがFIFAワールドカップに出場したのは1970年大会が唯一である。

 

1972年のフランス戦で初得点を挙げ、1980年のハンガリー戦では1試合2得点を挙げた。

 

ルーマニアがUEFA欧州選手権本大会に初出場したのは、ディヌの現役引退後の1984年大会である。

 

1981年までに75試合に出場して7得点を挙げ、75試合のうち38試合でキャプテンを務めたが、これは2013年時点でゲオルゲ・ハジ(65試合)、クリスティアン・キブ(50試合)、コスティカ・シュテファネスク(43試合)に次ぐ歴代4位の数字である。

 

エピソード

 

引退後

 

1984年には古巣ディナモの監督に就任し、その後はいくつかの中小クラブの監督を務めた。

 

1992年、ミルチェア・ラドゥレスクの後任としてルーマニア代表に就任し、選手時代にライバルのFCステアウア・ブカレストのエースとしてディヌの好敵手だったアンゲル・ヨルダネスクに引き継ぐまで指揮を執った。

 

1990年代後半以降には3度に渡ってディナモの監督に就任し、アドリアン・ムトゥなどを擁した。

 

1999-2000シーズンには、ディヴィジア1とクパ・ロムニエイの2冠を達成。

 

1990年代のディナモはタイトルから遠ざかっていたため、ディヴィジア1制覇は8シーズンぶりであり、2冠は10シーズンぶりだった。

 

ルーマニアのスーパーカップであるスーペルクパ・ロムニエイは、単一クラブが2冠を達成した場合には行なわれないため、2000年のスーペルクパは行なわれず、優勝クラブなしとなっている。

 

クパ・ロムニエイでは2000-01シーズンに2連覇を達成した。

 

2000-01シーズン途中には、ディナモのキャプテンを務めていたカタリン・ヒルダンが親善試合中に心停止を起こし、そのまま亡くなるという悲劇があった。

 

2001年にいったんディナモの監督を退いたが、2002年に再び就任して2003年まで指揮した。

 

2002-03シーズン最後までは指揮をとらなかったが、このシーズンのディナモはスーペルクパ・ロムニエイで準優勝し、クパ・ロムニエイで優勝している。

 

プレースタイル

 

万能多彩な選手でセンターバックとボランチを高い能力でこなせる守備のスペシャリストでFKにも非凡な才能を見せた。

 

高い守備能力を誇りながらも多彩な攻撃センスも発揮した。

 

テクニックも高く、ドリブルやパスも上手く、特にロングフィードは得意プレー。

 

またフリーキックは大きな武器だった。

 

スタミナ、パワー、スピードといったフィジカル面も弱点はなく、戦術的なインテリジェンスもあった。

 

チームでは不動のキャプテンを務めるほどリーダーシップもあり人望も厚かった。

 

まさにオールマイティな選手。

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