概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1957年10月27日(63歳) | ||
出身地 | ヘイズ | ||
身長 | 183cm、73kg |
Glenn Hoddle
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ザ・ウィザード(魔法使い)」。
右利きではあるが、両足を遜色なく使いこなすことから「利き足のない男」と呼ばれたこともある。
1980年代イングランド代表の司令塔。
トッテナムで活躍した同クラブのレジェンドの一人。
獲得タイトル
クラブ
トッテナム・ホットスパー
- FAカップ:1980-81、1981-82
- FAチャリティーシールド:1981年
- UEFAカップ: 1983–84
ASモナコ
- ディビジョン 1 : 1987-88
個人
- PFA年間最優秀若手選手: 1979–80
- PFA 2 部門年間最優秀チーム: 1977–78
- PFA ファーストディビジョン・チーム・オブ・ザ・イヤー:1979-80、1981-82、1983-84、1985-86、1986-87
- 世紀のPFAチーム (1977–1996): 2007
- ディビジョン 1 年間最優秀外国人選手: 1987–88
- 英国フットボール殿堂入り: 2007
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1975-1987 | ![]() |
377 | (88) |
1987-1991 | ![]() |
69 | (27) |
1991-1993 | ![]() |
64 | (1) |
1993-1995 | ![]() |
31 | (1) |
代表歴 | |||
1979-1988 | ![]() |
53 | (8) |
クラブ
12歳でトッテナムの下部組織に入り、1975年8月30日ノーリッジ戦にて弱冠17歳でトップリーグデビュー。
1976年2月21日に1部リーグの試合に出場するまで待たされたホドルは、ストーク・シティとイングランド代表のGKピーター・シルトンをかわして決めた見事な勝ち越しゴールで、すぐにその存在をアピールした。
翌シーズンからレギュラーとして活躍、1977/78シーズンに12得点を挙げると、その後に加入するビジャやアルディレスといったアルゼンチン代表MFの援護を受け、1979/80シーズンには自己最多の19得点を記録してPFA最優秀若手選手賞に選ばれました。
1980/81シーズンよりFA杯2連覇を達成。
2度目のQPRとの決勝は1試合で決着がつかず再試合が行われ、その両試合で得点を挙げました。
翌1982/83シーズンはカップウィナーズ杯でベスト4に進出。
UEFA杯では1983/84シーズンに決勝でアンデルレヒトを下し、クラブ2度目の優勝に貢献しました。
翌シーズンはレアル・マドリーに敗れてベスト8に終わりました。
1987/88シーズンにモナコへ移籍。
ヴェンゲル監督の下、同胞のFWヘートリーらと共にリーグ優勝を果たし、翌シーズンは新加入のリベリア代表ウェアと競い合うようにして18得点を挙げました。
翌シーズンにはチャンピオンズ杯ベスト8になるなど、スペクタクルと結果の両立を実現させ、キャプテンとしての重責も果たして「モナコの王子」と親しまれました。
1991/92シーズン、2部スウィンドンでは選手兼任監督でクラブ史上初のプレミア昇格に導きました。
チェルシーでも同じ役割を務め、1年目にFA杯で準優勝。
2年目にカップウィナーズ杯でベスト4に進出。
3年目に監督に専念しますが、リーグ11位に終わりました。
代表
ホドルは、1979年11月22日にウェンブリーで行われたユーロ80予選のブルガリア戦で、ケビン・リーブスとともにデビューし、2-0の勝利に貢献した。
3回目の出場となった1980年5月31日のオーストラリア戦(シドニーでの親善試合)では得点を決めた。
翌年開催されたEURO1980にも出場。
3回目の得点は5回目の出場となった1981年3月25日のスペイン戦(ウェンブリー)で、イングランドは2-1で敗れた。
1982年4月27日、カーディフで行われたウェールズとのイギリス・ホーム・チャンピオンシップでは、1-0でイングランドが勝利し、10キャップを達成した。
この時までに4ゴールを記録している。
1982年のスペインW杯にも2試合ながら出場した。
1986年のメキシコW杯では5試合に出場し、ベスト8進出の原動力となった。
イングランドはアルゼンチンとの準々決勝に進出したがマラドーナの神の手と5人抜きの前に敗れ去った。
ホドルは、1988年の欧州選手権の代表にも名を連ね、53回目にして最後の出場となったユーロ88のグループリーグ最終戦では、西ドイツでソ連に3-1で敗れた。
1986年4月23日、ウェンブリーで行われたスコットランドとの親善試合で2-1で勝利したのが最後の国際試合であった。
エピソード
彼の名前の由来は、ジャズが好きな父親が尊敬していたジャズ奏者、グレン・ミラーに因んで名付けられた。
現役引退後
1991-92シーズンからは再びイングランドへ戻り、プレイングマネージャーとして2部に相当するスウィンドン・タウンを指揮。
指導者としてのスタートを切ると同シーズンにFAプレミアリーグ昇格へと導いた。
1993年からはチェルシーFCの監督に就任。
3年間監督を務め、1994-95シーズンのUEFAカップウィナーズカップにおいてベスト4進出に導く手腕を魅せた。
これらの成功を受けてEURO1996終了後、テリー・ベナブルズの後任として、イングランド史上最年少の38歳でイングランド代表監督に就任した。
1998年のフランスW杯予選ではイングランドを2大会ぶりのワールドカップ出場に導き、本大会で指揮を執ったが、代表の中心選手であったポール・ガスコインを外し論議を呼んだ。
翌年「障害者は前世の罪の報いを受けている」と発言したことが基になり代表監督を解任された。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で63位に選出された。
その後、2000-01シーズンにサウサンプトンFCの監督に就任。 2000-01シーズン途中に古巣トッテナムの監督に就任。
当初は元スター選手の帰還という事で、トッテナムファンからは歓迎されたが、思うような成績が残せず2002-03シーズン途中で解任。
現在は英国のスポーツ専門放送局・スカイ・スポーツで解説者を務めている。
プレースタイル
イングランドには珍しいゲームメイクに秀でた司令塔。
ロングボール主体の戦術が主流だった当時のイングランドにおいて、華麗なテクニックや正確なFK、高い得点力で他の選手と一線を画す存在となった攻撃的MFです。
両足をそん色なく使いこなし、その長短のパスの精度は芸術の域にあり、魔法使いという異名を取った。
特にロングパス精度は素晴らしくピンポイントパスを武器に攻撃を組み立てた。
足元の技術、トラップやドリブルといったスキルも一流でテクニカルな司令塔として活躍した。
FKも大きな武器の一つでMFながら得点力もある選手だった。