概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1943年11月8日 | ||
出身地 | プレイストー | ||
没年月日 | 2019年12月21日(76歳没) | ||
身長・体重 | 184cm、75kg |
Martin Peters
ポジションはミッドフィールダー(左サイドハーフ、オフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
1966年ワールドカップ優勝メンバーの一人。
ウエストハムやトッテナムなどで活躍した。
1970年にウェストハム・ユナイテッドからトッテナム・ホットスパーに移籍したことで、イギリス初の20万ポンドのサッカー選手となった。
獲得タイトル
クラブ
- ウェストハム
- FAカップ:1963-64
- UEFAカップウィナーズカップ:1964-1965
- トッテナム
- リーグカップ:1970-71,1972-73
- UEFAカップ:1971-72
- アングロ=イタリアン・リーグカップ:1971
代表
- イングランド代表
- FIFAワールドカップ:1966
- UEFA欧州選手権3位:1968
-
個人
- 大英帝国勲章:1978
- イングランドサッカー殿堂:2006
経歴
クラブ
1959年に15歳でウェストハム・ユナイテッドFCに加入、1960年にプロ契約を結ぶ。
1962年、ロン・グリーンウッド監督の下でリーグ戦デビューを果たす。
1963-64シーズンにレギュラーの地位を掴み、リーグ32試合に出場する。
そのシーズンにチームはFAカップで優勝したが自身の出番は無かった。
翌1964-65シーズンのUEFAカップウィナーズカップではウェストハムの優勝に貢献した。
1965-66シーズンにチームはリーグカップ決勝に進出するが、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCに敗れた。
1968-69シーズンにキャリアハイとなるリーグ戦19ゴール、公式戦24ゴールを記録。
自身初のハットトリックも記録した。
1970年3月にトッテナム・ホットスパーFCへと20万ポンドという記録的な移籍金で移籍した(代わりにジミー・グリーブスがウェストハムへと5万ポンドで移籍しているため、実質の移籍金は15万ポンドだった。)。
トッテナムではビル・ニコルソンの下で、1971年、1973年のリーグカップ2度の優勝や1971-72シーズンのUEFAカップ優勝に貢献。
1973-74シーズンのUEFAカップでも決勝進出に貢献した。
1975年3月にノリッジ・シティFCへと4万ポンドで移籍した。
ノリッジではチームが1部リーグに定着するのを助けた。
1978年に大英帝国勲章を叙勲。
また、1979年にオーストラリアのフランクストン・シティというチームでゲストプレイヤーとして5試合に出場し、3ゴールを記録した。
この5試合でチームは4勝(1分)した。
1980年にシェフィールド・ユナイテッドFCに移籍。
1981年1月、チームの監督が病気でチームの指揮が出来ない状況に陥った時に現役を引退し、そのままチームの監督に就任した。
しかしチームを立て直すことができず、シェフィールド・ユナイテッドはクラブ史上初の4部リーグに降格した。
およそ20年間のキャリアで大きな怪我をすることも無く、通算882試合に出場。220ゴールを記録した。
代表
アルフ・ラムゼイの下で1966年5月にサッカーイングランド代表で初キャップを記録。
ウェストハム・ユナイテッドFCでチームメイトのボビー・ムーア、ジェフ・ハーストと共に1966 FIFAワールドカップのメンバーに選ばれた。
1966年のワールドカップ本戦では初戦の0-0で引き分けたウルグアイ代表戦では出場しなかったが、その試合後にラムゼイが従来の戦術から、ウイングを外し中盤の運動量を重視した4-4-2システム(ウイングレス・システム)に変更すると第2戦から起用されスタメンに定着。
チームは勝ち進み、決勝に進出した。
決勝の西ドイツ代表戦では78分に一時勝ち越しとなるゴールを決め、優勝に貢献した。
UEFA欧州選手権1968の代表メンバーにも選ばれるとチームの3位に貢献した。
1970 FIFAワールドカップの代表メンバーにも選ばれると準々決勝の西ドイツ戦で4年前と同じくゴールを決めた。
チームは自身のゴールとアラン・マレリーのゴールによって後半途中までリードしていたが結局延長戦の末3-2で敗れ、連覇を逃した。
1972年のUEFA欧州選手権1972、1974年の1974 FIFAワールドカップでは代表が予選で敗退し出場出来なかった。
エピソード
引退後
1984年、彼は保険会社に転職し、2001年7月に解雇されるまで勤務した。
ピータースは、1998年にスパーズの取締役会に非常勤で参加し、サポーター・リエゾンの役割を担った。
そのポストに4年間留まった後、退任したが、クラブのホワイト・ハート・レーンのグラウンドにあるホスピタリティ・スイートで、試合当日の歓迎者の一人として活動した。
また、ウェストハムのホームマッチでは、アップトン・パークのホスピタリティ・スイートでも仕事をしていた。
2006年、ピータースは自叙伝『The Ghost of ’66』を出版した。
2006年にウェストハム・ユナイテッドFC時代の指揮官であるロン・グリーンウッドと共にイングランドサッカー殿堂入りを果たした。
2016年にアルツハイマー病にかかっていることが判明した。
2019年12月21日、76歳で死去。
プレースタイル
テクニカルなミッドフィールダーで、ドリブルとパスは一級品。
とくにキックの精度が素晴らしくロングパス精度が高く、左サイドからのクロスなどでチャンスメイクをした。
スピードはそれほどないものの切れ味鋭いドリブルも武器の一つ。
攻撃的なミッドフィールダーとしてチームに多くのチャンスを作り出した。
ピータースは、左右どちらの足でもパスを出すことができ、空中戦にも強く、その動きからマークするのが難しいことから、「完全なミッドフィールダー」として知られていた。
フリーキックのスペシャリストでもあった。