概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1965年9月25日(56歳) | ||
出身地 | マドリード | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 73kg |
Martín Vázquez
ポジションはミッドフィールダー(左サイドハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
「ラファ」の愛称で知られた。
その個人技で、世界でも有数の攻撃的ミッドフィルダーとして名を馳せた。
ブトラゲーニョ、サンチス、ミチェル、パルデサとともに「キンタ・デ・ブイトレ」の名で知られる最強軍団の一角を占め、レアル・マドリードに欠かせない選手として在籍中に15以上のタイトルを手にした。
獲得タイトル
クラブ
レアル·マドリード
- リーガ:1985–86、1986–87、1987–88、1988–89、1989–90、1994–95
- コパ・デル・レイ:1988–89、1992–93
- コパ・デ・ラ・リガ:1985
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:1988、1989、1993
- UEFAカップ:1984–85、1985–86
- コパ・イベロアメリカーナ:1994
トリノ
- UEFAカップ準優勝:1991–92
代表
スペインU-21
- UEFA European Under-21 Championship:1986
個人
- スペインの年間最優秀選手:1990年
経歴
クラブ
ユースチームのコーチを務めていたホセ・ルイス・ロドリゲス・ラボルダに見いだされ、マドリードに入団。
ラボルダはエスコラピオスというチームでプレーする11歳の少年を見てその才能を確信、契約に向けて以下のような推薦の言葉を述べたという。
「並外れた選手を見つけた。めったに現れないほどの才能の持ち主だ。これは契約しなければ。その選手の名前はマルティン・バスケス、今はエスコラピオスでプレーしている」。
それから間もなく、「ラファ」の愛称で知られたこの若者は、マドリードの白いユニフォームをまとうという夢をかなえることになる。
18歳の若さで、すでにファーストチームで別格のパフォーマンスを披露。
キンタ・デル・ブイトレの左サイドハーフとしてリーグ5連覇をはじめ数々のタイトル獲得に貢献し、自身も1989-1990シーズンにはMFながら14得点を挙げる活躍を見せた。
中盤にマルティン・バスケスを擁したマドリードは、リーガで6回の優勝を飾るなど、数多くのタイトルを手にした。
この成功により、世界で最もオファーが殺到する選手の一人となり、1990年にはトリノへ移籍。
しかし、イタリアでは満足いく成績を収められず、マルセイユを経て、結局は自らが育ったクラブ、マドリードに復帰する。
だが、2度目のマドリードでの選手生活は、最初とは大きく異なるものだった。
多くのケガに見舞われ、スタメンで定位置を確保することも難しくなる。
そして1995年6月、栄光に満ちたレアル・マドリードでの選手生活を終えた。
その後1995年にデポルティーボ・ラ・コルーニャへ移籍し2年間プレーする。
そして、1997年にエミリオ・ブトラゲーニョのいるメキシコのアトレティコ・セラヤへ移籍し、ドイツのカールスルーエSCで現役を引退した。
代表
スペイン代表としては38試合に出場。
デビューは1987年9月23日、ルクセンブルクとの親善試合でした。
バスケスは、UEFAユーロ1988や1990 FIFAワールドカップなどに出場した。
1991年9月4日のウルグアイとの親善試合で唯一の得点となる先制点を決めた。
しかし、1992年に監督に就任したハビエル・クレメンテは代表におけるキンタ・デル・ブイトレの解体を行い、まだ20代であったにも関わらず代表のキャリアを閉じた。
エピソード
負傷のため、1998年末にサッカーから引退することになった。
その後、レアル・マドリードのユース監督として働きながら、クラブのベテラン選手と一緒に健康維持に努めた。
プレースタイル
定規で測ったかのような正確なパスで味方のチャンスを演出したミッドフィルダーです。
テクニカルな彼のプレーでチームは多くのチャンスを創出できた。
非凡な攻撃センスだけではなく豊富な運動量も誇り攻守に渡ってチームに貢献しました。