概要
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1981年8月12日(41歳) | ||
出身地 | アルル | ||
身長 | 182cm | ||
体重 | 78kg |
Djibril Cissé
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
「フランスの怪物」という異名がある。
2000年代に活躍したフランス代表のスピードスター。
奇抜なヘアスタイル、一度見たら忘れることはないだろう。
かつてリバプールにも所属していたが思うような活躍が出来なかった。
ポテンシャルは十分なのだが、トッププレーヤーになれなかった選手である。
獲得タイトル
クラブ
- オセール
- 2003年クープ・ド・フランス優勝
- 1999年ガンバルデッラカップ優勝
- 2000年インタートトカップ準優勝
- リバプール
- 2005年チャンピオンズリーグ優勝
- 2005年ヨーロッパスーパーカップ優勝
- 2006年FAカップ優勝
- 2005 FIFA クラブワールドカップ準優勝
- オリンピック マルセイユ
- 2007年のクープ・ド・フランスのファイナリスト
- パナシナイコス
- 2010年ギリシャチャンピオン
- 2010年ギリシャカップ優勝
- SCバスティア
- フランス フットボール リーグ カップ 2014-2015のファイナリスト
代表
フランス代表
- 2000 年のU18欧州チャンピオン
- 2003年コンフェデレーションズカップ優勝
個人
- 2002 年に最高のUNFPリーグ 1 の見込み客に選ばれました
- 2003 年12 月の月間最優秀選手
- 2005年UEFAスーパーカップ最優秀選手
- 2002 年(22 ゴール) と2004 年( 26 ゴール)のリーグアン 得点王
- 2010 年(23 ゴール) と2011 年(20 ゴール)のギリシャ選手権の得点王
- 2002 年のUNFP トロフィーでディビジョン 1チーム タイプに選ばれました。
- 2001年、2003年、2007年にクープ・ド・フランス得点王
- 2021年ガンバルデッラカップのレジェンドイレブン
経歴
クラブ
1989年、地元のチームACアルル・アヴィニョンにて8歳のときサッカーを本格的に始める。
1996年にニーム・オリンピックを経て、AJオセールのユースチームに所属。
2年後の1998年にプロデビューを果たした。
2001-02シーズンに22ゴールを挙げ初のリーグ・アン得点王に輝く。
翌2002-03シーズンは得点王を逃すものの、2003-04シーズンに26ゴールで得点王に返り咲き、チームのUEFAカップ出場権獲得に貢献した。
2004年7月1日、かねてから移籍が噂されていたイングランドのリヴァプールFCに移籍した。
移籍直後はプレミアリーグ独特のスピーディかつアグレッシヴなゲーム展開、そしてラファエル・ベニテス監督の唱えるサッカーにもなかなか馴染めず、スタメンから遠ざかる日々が続いた。
さらに12月には「もしピッチ上で適切な応急処置が行われていなかったら再起不能だった」とまで言われた程の酷い怪我(左足腓骨・脛骨の同時骨折)を負うなど苦難続きだったが、怪我の癒えた2005-06シーズンからは徐々に本来の実力を発揮しつつあった。
しかし、2006年W杯ドイツ大会開幕を直前に控えた中国との親善試合で再び骨折し、本大会への出場は出来なかった。
2006年7月13日、オリンピック・マルセイユにレンタル移籍して母国復帰。
2007年7月8日にマルセイユと5年契約を結んだ。
移籍金は600万ポンド。
2008年8月5日にサンダーランドAFCへのレンタル移籍が決定し、再度イングランドへ。
サンダーランドでは35試合に出場し10得点を挙げる活躍をみせた。
2009年7月26日、移籍金800万ユーロの4年契約でギリシャ・スーパーリーグのパナシナイコスFCへと移籍した。
初年度からリーグ戦23得点を挙げて得点王を獲得。
チームの2冠達成に大きく貢献した。
この活躍により一時は遠ざかっていたフランス代表にも復帰し、2010 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されたが、チームは1勝もできずグループリーグ敗退に終わった。
2010年冬、人種差別を受けていることを理由に、今シーズン限りでパナシナイコスを退団する意向を明らかにした。
2011年7月12日、移籍金580万ユーロの4年契約でイタリアのSSラツィオに移籍。
自身初となるセリエA挑戦だったが、左右のウィングで使われることが多く開幕戦の1ゴールに留まった。
2012年1月31日にクイーンズ・パーク・レンジャーズFCへ2年半契約で移籍。
三度イングランドでプレーすることになった。ハーフシーズンで2度のレッドカードで合計7試合に出場できなかったが、8試合で6ゴールをあげる活躍で結果的にQPRを残留に導いた。
2013年7月3日、ロシア・プレミアリーグのFCクバン・クラスノダールへ完全移籍。
2014年1月1日、SCバスティアに移籍し、5年半ぶりにリーグ・アンに復帰した。
2014-2015シーズン終了後に退団。
2015年6月、レユニオン・プレミアリーグのサン=ピエロワーズと9月からの1ヶ月契約を結んだ後、同年10月19日に現役引退を発表した。
代表
ジブリル・シセは、1996年にU15代表として初めて青いジャージを着て、オランダに1-0で勝利した。
1997年にはU17フランス代表として2試合に出場し、国際試合での初ゴールを記録した。
その後、2000年のユーロU18大会に参加することになったが、その際、大会開始5日前にグループの大部分が食中毒に見舞われた。
シセは数日で5キロの減量に成功し、初戦のフィンランド戦は1-0で敗れ、辞退を余儀なくされた。
復帰後は、無失点でチームを大陸制覇に導いた 。
翌年には、レイモン・ドメネク率いるU-20フランス代表として5試合に出場し、6得点を記録した。
しかし、次戦のアルゼンチン戦では敗戦(1-3)。
これらの好成績により、U21チームに招集され、4試合で6ゴールを記録した。
ユースの全カテゴリーに選出された後、シセは、2002年5月18日のベルギー戦(1-2で敗戦)で、ハーフタイムにダビド・トレゼゲと交代し、フランスのシニアチームA代表に初選出された。
同年、日韓ワールドカップの出場選手にも選ばれた。
20歳の時、フランス代表の中で最年少の選手だった。
グループリーグの3試合で出番があったが、ゴールはなかった。
2敗1分けで、レ・ブルーは1次リーグで敗退した。
2002年9月7日、ユーロ2004予選8試合のうちの1試合、キプロス戦で、ジブリル・シセはフランス代表として初ゴールを決めた。
2003年のコンフェデレーションズカップではフランスで優勝し、その際、決勝戦で唯一のゴールを決めた。
ユーロ2004のメンバーとして検討されたが、U-21のポルトガル戦での退場処分により、選出されなかった。
当時のジャック・サンティニ監督が、大会の最初の3試合に出場できない選手を引き取りたくなかったのである。
2006年ワールドカップ予選では、フェロー諸島戦でフランス代表として初のダブルゴールを決めるなど、6試合で4ゴールを挙げ、フランス代表の得点王となった。
レイモン・ドメネク監督からも信頼が厚くフランス代表にも選ばれていたシセでしたが、2006年ドイツW杯開幕を直前に控えた中国との親善試合で骨折してしまい、フランスにとって大きな痛手となりました。
結局、本大会ではフランス代表の前線はアンリ任せになりましたが、シセが出場していればまた違う展開になっていたはずです。
2008年5月18日、シセは、ユーロ2008の事前選考30選手の中に含まれていました。
その9日後、フランス代表のエクアドルとの練習試合(2-0で勝利)では、攻撃陣として先発出場し、ハーフタイムにバフェティンビ・ゴミスと交代し2得点をあげた。
翌日、グループから離脱した7人の選手の1人となったため、オーストリアとスイスで開催された「ユーロ2008」には出場しなかった。
2010年3月3日、スペインとの親善試合で、約2年ぶりにレ・ブルーに復帰したジブリル・シセは、ルイ・サハの代わりにレイモン・ドメネクに呼ばれた。
翌年5月には、フランス代表監督からワールドカップ南アフリカ大会に招集された23人の選手の中に含まれていた。
出場したのはグループリーグ最終戦の南アフリカ戦の1試合のみ(2-1で敗戦)。
フランスチームは1次リーグで敗退した。
2011年10月4日、カリム・ベンゼマとケビン・ガメイロの負傷に伴い、ローラン・ブランからアルバニアとボスニア・ヘルツェゴビナ戦に招集された。
スタッド・ド・フランスに戻った彼は、アルバニア戦の最後の15分間、観客からスタンディングオベーションを受けながら登場し、温かい歓迎を受けた。
エピソード
2005年時点でadidas社のスパイクを着用していてadidasのテレビCMに度々登場する。
奇抜なヘア・スタイルをするとともに、自身のアパレル・ブランド「KLUBB9」を開設している。
2007年公開のフランス映画「TAXi 4」に本人役でカメオ出演。
上半身全体を覆うようなタトゥーを入れている。
料理人の松嶋啓介と親交がある。
2015年10月に元同僚のフランス代表のマテュー・ヴァルブエナの性行為を映した映像を巡っての一連の恐喝容疑により仲間とともに一時、警察当局に身柄を拘束されたと報じられている。
現役引退後は、コンサートDJとして活躍している。
『キャプテン翼』の日向小次郎がプリントされたシューズを持っている。
シセは奇抜なヘアスタイルでも注目を集めていますが、彼の妻が美容師らしく、しょっちゅうカットしてもらっているようです。
プレースタイル
豪快なシュートと爆発的なスピードでゴールを量産するストライカー。
その抜群のスピードと身体能力で相手DFを振り切り、左右両足から強烈なシュートを放つストライカーで、その豪快なプレイスタイルから「フランスの怪物」と称されます。
しかし、好不調の波がある選手で、ゴール前でのシュート精度に欠けるとも言われています。
一番の持ち味は爆発的なスピードを活かした裏への抜けだしと豪快なシュートである。
彼を端的に表現するなら、それは「プレー選択の絶望的な悪さ」にある。
選手の質を最終的に決めるのは、技術でもなく身体能力でもなく「知恵」だ。
なぜ高さもスピードもないフィリッポ・インザーギが点を重ねられるのか?
それは彼が類稀な狡猾さを備えているからだ。
なぜカルボーニが40歳になっても一線でプレーできるのか?
彼が適切なポジショニングと相手を「殺す」術を知っているからだ。
しかし、シセは違う。
技術も身体能力も備えているが、知恵だけがごっそりと抜け落ちている。
実際のプレー中の姿を追ってみよう。
まず、彼のプレーの開始は2つのパターンに分けられる。
一つは、裏に抜け出してパスをもらうこと。
しかし、抜け出し方に工夫がないので、これは大抵オフサイドに引っかかる。
もう一つはサイドに流れて、そこからドリブルを開始すること。
スピードがあるので、抜けないまでも相手を押し込むことはできる。
DFがたいしたことがなければ、一気にペナルティエリア付近まで行くことも可能である。
さて、ここからが問題だ。
DFをちぎった場面で、シセはどうするだろうか?
状況としては、サイドから抜け出しているので、ゴールに対してあまり角度はない。
さらに逆サイドのDFが自分のマークを振り捨てて、全速力で詰めてきている。
このシチュエーションでは、大抵のFWだったら、パスを選択するだろう。
もしくは、パスと見せかけて縦に1ドリブル入れてから、逆サイドに流し込む、といった感じだろうか。
しかし、シセは違う。
DFが来るやいなや、彼は「力いっぱいシュートを撃つ」のである。
フェイントも何もなく、ただ力いっぱい撃つ。
コースはほとんどないので、大抵はニアに大きく外れる。
逆サイドにフリーで待つキューウェルやモリエンテスは頭を抱え、クラウチはやさしく微笑んでいる。
それでもシセは謝るそぶりすら微塵も見せず、むしろある種の「やりきった」という表情で満足げに自陣へと引き返していくのである。
選手にはプレーの優先順位がある。
シセにとっては「ゴールを奪う」は一位ではない。
むしろ結構下かもしれない。
なぜなら、彼にとっては「力いっぱいシュートを撃つ」というのが至上命題なのだ。
ゴールはおまけ程度のものに過ぎない。
そう考えると、あの表情もプレー選択も納得できるというものだ。