概要
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1957年3月12日(65歳) | ||
出身地 | アムネビル | ||
身長・体重 | 181cm、75kg |
Patrick Battiston
ポジションはディフェンダー(センターバック、右サイドバック)。
利き足は右。
1980年代に活躍したフランス代表のディフェンダー。
1982年ワールドカップ・スペイン大会、4位のメンバーで、1984年欧州選手権・フランス大会優勝メンバーの一人。
1986年ワールドカップ・メキシコ大会では3位に輝いたフランス黄金時代のディフェンダー。
クラブレベルではサンテティエンヌ、ボルドー、モナコで活躍した。
獲得タイトル
クラブ
- サンテティエンヌ
- リーグ・アン: 1980–81
- ボルドー
- リーグ・アン: 1983–84、1984–85、1986–87
- クープ・ド・フランス: 1985–86
- モナコ
- リーグ・アン: 1987–88
代表
フランス代表
- UEFA欧州サッカー選手権:1984年
- FIFA ワールドカップ: 3 位 1986
- FIFA ワールドカップ: 4 位 1982 年
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1973-1980 | ![]() |
181 | (19) |
1980-1983 | ![]() |
101 | (8) |
1983-1987 | ![]() |
136 | (10) |
1987-1989 | ![]() |
68 | (10) |
1989-1991 | ![]() |
71 | (1) |
代表歴 | |||
1978-1986 | ![]() |
56 | (3) |
クラブ
下部リーグのタランジュ(1966-1973)でキャリアをスタートさせ、FCメス(1973-1980)に見出され獲得された。
その後、サンテティエンヌ(1980-1983)に移籍し、1981年に1部のタイトルを獲得、ボルドー(1983-1987)に移籍し、1984、1985、1987年のリーグ優勝と2度のクープ・ドゥ・フランス優勝を果たした。
その後、モナコ(1987-1989)に移籍し、1988年にリーグ優勝を果たし、ボルドーに戻り引退した(1989-1991)。
彼のプロとしてのキャリアは18シーズンであった。
代表
1976年 モントリオールオリンピックに出場しベスト8に進出した。
1978年にA代表デビュー。
1978年、1982年、1986年のワールドカップにフランス代表として出場し、1984年の欧州選手権ではフランス代表の優勝に貢献した。
特に1982年スペイン大会では西ドイツのGKハラルト・シューマッハと交錯し、気絶、歯2本と肋骨を折る重傷を負った。
エピソード
引退から25年経った今でも、リーグアンでの最多出場選手のトップ10に名を連ね、非ゴールキーパーでは3位を占めている。
シューマッハとの問題事件
ワールドカップ史上に残るある問題事件は1982年W杯の準々決勝フランス戦でおきた。
西ドイツGKシューマッハはDFバチストンと1対1になった場面で、危険なエルボーを見舞った。
バティストンはガタガタ音を立てて意識を失い、椎骨を損傷して地面に倒れた。
そして歯がおられ、昏睡状態に陥りました。
救急隊員はピッチで酸素を投与しなければなりませんでした。
ミシェル・プラティニは後に、「彼には脈がなく、青白く見えた」ので、バチストンは死んだと思ったと語った。
バチストンは頭部を強打して気絶し、脊椎や歯を折るなどの重傷を負ったが、ファウルの笛は吹かれず、ゴールキックでプレーは続行された。
その後、シューマッハはバチストンに直接謝罪し、バチストンはその謝罪を受け入れた。
数年後に出版された自伝『Anpfiff』の中で、シューマッハは、バチストンの状態を確認しに行かなかったのは、バチストンの周りに多くのフランス人選手が立ち、シューマッハの方に脅迫的なジェスチャーをしていたからであると述べている。
引退後
引退後、バチストンはボルドーのスタッフになった。
スポーツディレクター、ユース・リザーブチーム監督、ユースアカデミー責任者など様々な役職を歴任した。
彼の指揮の下、アカデミーはマルアン・シャマフ、リオ・マヴーバ、マルク・プラナスといった選手を輩出している。
プレースタイル
守備能力が高いセンターバック。
サイドバックをこなせるほどのスピードもある選手。
対人守備も優れているが、鋭い読みを生かしたカバーリングが得意。
カバーできるエリアが広くスタミナもあった。
上背はそこまでないが空中戦もそこそこ強い。
また足元の技術にも定評があり、ビルドアップ時にも貢献できる。